福山城は観光地(写真は福山城・伏見櫓)


福山駅から広島北部の三次駅を経由して広島駅に行くという、国盗りでもなかったらやらないようなルート取りですが、出発の11時過ぎまで1時間ほどあるので、予定通りに駅前にある福山城の見物へ。福山城は江戸時代初期に譜代による西国監視の最前線として築城された巨城で、10万石の福山藩の居城でありながら五重六階の天守に三重の櫓を7基もつという、国内でも屈指の規模でした。当然、福山藩単独でそんな居城が作られるわけもなく、幕府からの多額の援助や、一国一城令により廃城になった伏見城などから櫓等を移築するなど、天下普請に準じた扱いを受けています。天守は昭和20年の福山空襲で焼失していますが、伏見城から移設した伏見櫓は現存最古の櫓と言われるほどのもので、重要文化財に指定されています。
駅のすぐ前に天守があるということは、逆に言うと二の丸とかは全部、線路や街並みの下になってしまったということでもあり、かつての巨城も残すものは本丸のみです。石垣に沿って通路を登ると目の前はすぐ伏見櫓がそびえています。ちなみに伏見城というと豊臣秀吉のイメージが強いですが、この伏見櫓は関ヶ原の後に建てられた徳川系の伏見城になります。伏見櫓を回り込むように天守へ向かうとこれまた現存建造物の筋鉄御門が見えてきます。
門をくぐると本丸ということになりますが、天守より前に目の前に見える現在、御湯殿と呼ばれているに向かいます。ここは昔は蒸し風呂と座敷があって、『御風呂屋』と呼ばれていましたが、大正時代ころから御湯殿と呼ばれるようになり、すっかり定着してしまったそうです。明治時代には料亭に転用されて、玄関や台所が作られてしまい、更に詳細な記録のないままに空襲による焼失で、現在は座敷部分を模擬的復元(復元というには元の状態からかけ離れている)、蒸し風呂のあった場所は流し台やトイレになっているそうです。この辺の感覚は、福山藩がそれほど領民に慕われていなかったからなのかと熊本城と比較してしまいます。
天守も焼失前の姿を忠実に再現していないため“第二次世界大戦で焼失したのち復興された天守の中で最も不正確な姿での再建”等とウィキに書かれてしまっていますが、やはりこの辺も(ry)そういうわけなので、遺構もほとんど残っておらず、観光地に近い状態なので、天守には登らず、写真だけ撮って駅へ戻りました。