やはり熊本城は格が違った


福岡空港に到着し、まずは九州に第1歩を記すために国盗り。『博多』を盗ってから地下鉄で博多駅へ向かいます。博多駅のホームへあがるとどこからともなく豚骨ラーメンの匂いがしてきます。さすが博多!大好きな豚骨ラーメンの食べ歩きをするというのもいいのですが、可能な限り熊本に早く到着しなくてはいけない為、今日は断念。特急を使って熊本へと向かう間に『三宅・日佐』『太宰府・筑紫野』『鳥栖』『久留米』『八女・筑後』『柳川・大牟田』『玉名・山鹿』『立田山』『熊本城』と数珠つなぎに盗りました。

熊本駅を出て市電で熊本城前に着いたのが15時50分。どうにか16時30分の天守閣への入場締め切りまでには間に合いそうです。加藤清正像を横目に見ながら頬当御門に向って坂を登り、入場料を支払って本丸へ。虎口を曲がると通称『闇り通路(くらがりつうろ)』に入ります。10年近く前に来たときには何もなかった通路を挟む石垣の上には本丸御殿の一部が再建されており、今ではその名の通りの地下道となっていました。

通路を抜けると天守閣前の広場に到着。天守閣には一度行ったことがあるので、本丸御殿を優先して見学することに。今回の復元事業の象徴とも言うべき本丸御殿ですが、その目玉は何と言っても『昭君之間』。言い伝えでは、加藤清正豊臣秀頼を迎えるために作ったと言われる、一番格式の高い部屋です。結局、清正は早死にし秀頼は大坂夏の陣で歴史の舞台から退場させられることになったわけで、こちらの部屋は歴代藩主の部屋として使われたそうです。清正の側近の日記辺りでこの辺の事情を書き遺したものが出てくればいいのでしょうが、真相は歴史の奥深く。豊臣譜代の大名(譜代と言うのは語弊がありますが)で、秀頼に気を使ったと言えるのは加藤清正福島正則くらいだったという事情が、こうした伝説を生んだのかもしれませんが、同時代の伊達政宗仙台城天皇・将軍の御成門や専用の上座を作ったことを考えれば、発想としてはありえる話だったわけですがね。

他にも襖絵や茶室などがありましたが、駆け足で通り抜けて天守閣入口へ。ギリギリ2分前ですが、中に入り階段を上って行くと熊本築城から細川藩政の歴史的遺品、西南戦争最大の焦点、熊本城攻防戦についてがパネルで紹介されています。この辺の展示は以前と変わることはないのですが、いつ見ても面白いものです。最上階からは熊本市街の様子が一望できるわけですが、ビルやらネオンやらを眺めても一向に面白くないので、目線を下に向けて現在も復興作業の進む二の丸等の様子を眺めてみます。以前には無かった飯田丸五階櫓など、熊本城の中核施設が次々と再現されているわけで、実にすばらしいことです。京都が日本の“文”の街の代表なら、熊本は“武”の街の代表でしょうね。今後も復旧作業は続くそうなので、5年置きくらいに行けば、違ったお城の様子に会えるのではないでしょうか。